ルアー、その基礎になるスプーンの歴史は長い。
スプーンを完全にマスターするのは難しい。
そして今は0LDと呼ばれるスプーンを語れるほど、まだ僕自身も深くは知らない事も多い。
スプーンの魅力は何か?その答えを今瞬時に答えられるほど整理できていないけれど。人それぞれ、アングラーの数だけこのルアーとの出会いがある筈、その中で僕という釣師がスプーンと出逢い、どう関り、どう覚えて行ったのかを、今回はお伝えしたいと思う。
今から35年前。
まだ田舎の商店街も活気があって、豆腐屋の揚げたて油揚げの匂いがしていた街道沿いは小さな金物屋や八百屋や自転車屋に並んでいて、賑わっていた。
僕の生まれ育った町にも、釣具屋が数店舗あって、少年時代の僕は何時もそこにいた。
馴染みの釣具屋の奥には頑固そうなオヤジさんがいて、良くもしてもらったし、何時間も物色していると買うものを決めてから来なさいとよく叱られたものだった。
そんな僕を見かねてだろうか、これ見て勉強してからおいでと、ルアーが沢山載っていたシマノ、ダイワ、オリムそれぞれのカタログを手渡してくれたのが懐かしい。それをボロボロになるまで何度も読み返し、取り扱いのあったルアーの名前は殆ど覚えたほどだった。
今の様にテレビゲームも無い、スマホもネットも無い時代だからこそ、良き出逢いも沢山あった。
その釣具屋は入り口には大きくABUと書かれた青い楕円のステッカーが張ってあって、店内にはヘラや鯉釣り、渓流釣りの道具が置いてある、万引き防止も兼ねているのか?一番目に付くところにルアーの陳列棚がある。
様々なルアーが売られていた、安くても1000円近いものが殆どで、ほぼ全て海外メーカーのものだった。
国産は少しあるけれど、海外のルアーのニセモノなんだということは子供の僕でもわかった。
ルアーの殆どは舶来品だった時代、簡単に触れる事も子供の小遣いでは手に入れることも出来ない。
その中でもABUのリールやプラグなどは、目を疑うくらいの価格だった。
赤白のダーデブル、銅色のオークラ、ゼブラ柄のトビー、青に黄色の点々の付いたエバンスのシャグスプーン、その中で唯一手に届きそうだったのは忠さんのスプーン達、始めはシマノから販売されていたたけれど、その後、発売元は隣の群馬県桐生市、セントラルフィッシングというところになった、後に忠さん(故:常見忠さん)は新潟県の魚野川畔に移り住むのであるが、その昔は、子供達でも手の届く価格(300円程度)で本格的なスプーンを販売していたのである。
忠さんへの憧れ、大人の世界への憧れ、僕は心は一瞬にしてそのスプーン達に奪われて行く。
オヤジさんにルアーの名前の事を質問攻めにすると、「俺は横文字わかんねぇんだ」兄ちゃん(息子さんの事)が居る時に聞きにおいでという。
最初はその息子さん、つまり兄ちゃんに色々教えてもらった。
ただ、遠くのフィールドの話が多かった。
当然、身近なフィールドなどは皆無、それでも、遠く知らない何処かの湖、その湖底深くに潜む大物と出会う為にはこの道具が要るものだというのを本能的に感じていた。
そもそも、新潟県、銀山湖に二尺の大岩魚を求めて忠さんが通っていた時代は僕が生まれるもっと前、今から50年前の話。その後、開高さんと組んで、日本のスプーンフィッシングが幕開けをするのだが、後のTV深夜番組11PMの放送で世間がルアーフィッシングブームに至る。
お年玉を全て叩いてソリッドグラスのキャスティングロッドとオリムペット(オリムピックのクローズドフェイスリール)を買いルアーを初めてみるが、これが中々上手く行かない。
それから水があれば全ての場所でルアーを投げた、ナマズでも雷魚でも鯉でもフナでも何でもいい。
とにかくルアーで魚を釣ってみたかったが自転車で行ける範囲は中流域の小川。
当時、今の様に下水管や汚水処理などはされていなかったから、実家近所の川は工場や生活排水で泡が立ちドブ川の様になっていた、そこはトラウトなどは、程遠い世界。
水が綺麗な場所に行かなければ憧れの魚には逢えない事を知ったと同時にこんな川にしてしまった街を憎んだ。
この時、僕はまだ10歳にもなっていない。
それから暫くしたある日、叔父さんがバーベキューに行くぞと誘ってくれた。
叔父は中禅寺湖や利根川源流部に通うフライマンだった、もちろん二つ返事で喜んで出かけた。
僕が渓流やサクラマスに夢中になった原因は間違いなくこの叔父の存在だ。
叔父の車は三菱のJEEP、ロングボディーのそれは子供から見れば戦車みたいな車だった。
ミッションとエンジンの音が響く車内で何度も峠を越えて山道に揺られながら、その日の午後には奥秩父にある中津川源流部に到着した。
焼き肉を食べることよりも、何よりも岩魚やヤマメに逢えるかもしれない事が僕にとっては重要だった。
深く青く澄んだ淵に10gもあるようなスプーンを沈め、巻いてくると10センチに満たないような木っ端ヤマメが追いかけてくる!!
これは釣れるかもしれない!
何度も何度も投げ続けたが、最初のそれっきり魚の影は見えなくなった。
焼けたぞ早く食べろ!と叔父に呼ばれても、中々その場を離れられずにいた記憶は今でも残っている。
ひとしきり食べ終わり、もう一度同じ淵に向かうが、さっきのヤマメ達は完全に沈黙したまま夕暮れになった。
叔父は沢へ分け入り山葵取りをすると、凄いだろと自慢げに僕に見せてくれた。
魚は釣れなくても山には色々あるんだと教えられた。山菜の事、キノコの事、色々な事。
そんな少年時代を過した事もあり、後に必然的にトラウトフィッシングにのめり込んで行く事になるのであるが、交通手段を持たない少年は身近なバス釣りに嵌りつつも心の片隅には岩魚やマスが泳ぎ続けていた。
僕が16歳に成った冬、叔父は50cm近い本流の虹鱒を近所の荒川で釣って見せてくれた。
ルアーはスプーンだった、コータックのコンデックス5gのゴールドだった。
頭の中は真っ白になった、遠くじゃなく、身近な川にもマスがいる。
よくよく話を聞けば、冬の間は落ちてきた岩魚やサクラマスもいるんだという。
その後、僕は忠さんのスプーン、マスターアングラーやダムサイト、バイト等を片っ端から買い集めた。
それはもちろん川のマスを釣るために。
しかし何度通えど釣ることは出来なかった。
管理釣り場に行き始めたのもその頃、そこが大きなターニングポイントになる。
冬の間だけ県営のプールにマスを放流して釣らせる管理釣り場が埼玉には幾つかある。
電車やバスで行くことが出来ることもあり、僕は夢中になった。
今では考えられないけれど、5gや8gのスプーンで普通に釣れた。
そこでブラウンや虹鱒や岩魚を釣りまくった。
ウエダの6フィートのスーパーパルサーにカーディナル3、ラインはバリバスの6LB。
高校生にしては少し高級タックルだったけれど、それでも実家の家業を手伝いながら小遣いを貯めてはせっせと買い集めて行く、フライタックルやタイイングの道具も揃え始めて一気に色々な事を学んで行く。
虹鱒はタナを釣る事、ブラウンは障害物の物陰、岩魚はカケアガリを狙う事、それは此処で学んだ。
その頃、僕のスプーンの釣りはリフト&フォールが中心で、周囲の人がリトリーブの釣りだった事もあり、何か確信を掴んだ気でいた。そしてコンデックス3gの威力を知る、今までコンスタントに釣る事が出来なかった回遊の虹鱒を狙って釣る事ができたのである。当時の主流は5g、それに比べて半分以下の大きさ、上手なフライマンには適わないけれど、数を揃える事が難しかったルアーでも二桁は釣る事が出来た。
ラインはワンランク、ツーランク細くした方が良いこともこの時知った。
飛距離もアタリの出かたもラインを細くする事で飛躍的に変わる。
18歳の頃には、川のマスや湖にも応用出来るのじゃないだろうか?と思い始めていた。
僕のサクラマスへの挑戦へと続いて行く。