この湖の朝焼けは、まるで幸せな彼方の岸を思わせるように美しく、訪れる度、実にさまざまな表情を見せてくれる。
この日は、まさに目を見張るような黄金色を魅せてくれた。これだけで随分と心の澱を洗い流してくれる。来て良かったと思える。
10数年ぶりに車を買ったことも今日の釣りを特別なものにしていた。ネットで1年以上前から目を付けていた、心待ちにしていた車。元々、車なんか何でもいいという人間だったが、発売前のプロトタイプを見た瞬間、一目惚れだった。これから、長く付き合う相棒。大事にしていこう。
何だか、この日は初めから予感があった。
行くときから彼には「今日は、藤井君の日だから。」と冗談混じりで伝えていた。
もしかしたら、自分の物欲が満たされてしまって、瞬間的にレインボーに会いたいという渇望が失せてしまっていたのかもしれない。
でも、確かに、彼は一つ超えていた。何日か前から感じていた。自分は明らかにその「気」にあてられていた。
心には、タイミングには、波がある。バイオリズムがある。
情報を、道具を、失敗という名の経験を、そして想いを、乾いたスポンジが水を吸い込むように、INNする波。
そして、機が熟して、INNしたものをOUTする波。
何となく彼のOUTする波を感じていた自分は何度も彼に言った。
「今日は、藤井君の日だから。」
朝焼けの空が優しい青に変わり、木々の産まれたばかりの新緑とはかなく混ざり合う。
ほどなくして、彼のところから、「バシャッ!!」というジャンプ音。一瞬魚体も見えた。レインボーだ。いい音。小さくはない。
「やったな!!」と声をかけると、「やっちゃった。。。」という顔でこちらを見る。口は笑って、目はちかちか落ち着きがない。上と下があべこべ。ロッドは力なくまっすぐに伸びている。バラしてしまったのだ。
自分は、これを見ても何故だか釣りをする気があまり起きない。「今日はアンタの釣りを見てようかな。」と言うと、彼はいささか不機嫌そうにこっちをにらむ。
湖には、見たこともないような大きな綿毛が陸の上の喧噪など、我関せずとばかりにゆたゆた浮かんでいる。条件は悪くない日だった。湖の中の感触もいい日のそれだ。きっと何かが起きてくれる日。
そして、波がきた。バイオリズムが頂点に達した。この日の最大のチャンス。魚が見えているわけではないが、ここには何回も来ている。もう分かる。
「今だよ。今。」と声をかけ、一際集中してキャストを繰り返す。
しばらくして、彼のロッドが大きく曲がる。大きい。
「よっしゃ!!」「ゆっくり!!」
彼はさっきと同じ失敗をしないよう、ロッドを寝かせてリーリングする。いよいよか。
「ジャボオッ!」水面を割って出た。瞬間、彼の顔がゆるむ。
「バスです。」彼がこの日のために揃えたベイトタックルの筆おろし。入魂の儀式だ。本命ではないが、立派なバスだ。ランカーと言っていいサイズ。
そして、自分のロッドにも明確なバイト。大きくはないが、とにかく難しいここでのダブルヒットは非常に珍しい。
自分のはハスだった。濁音と清音の違い。少し苦笑いが出てしまうのはしょうがない。
お互いの魚をリリースし、昼食を取る。カップラーメンだけの簡単な食事だが、話しは尽きない。どうでもいい話しを男が2人で、楽しげにくっちゃべっている。はたから見たら、どんな風に見えるだろうか。
食後から夕方まで、何回かバイトや、バラシもあったが、結局ノーフィッシュだった。
朝方、黄金色だった湖面は少し青みがかったプラチナのような色になっている。強い風が湖面を輝かせ、雲の切れ目から光のカーテンが舞い降りてくる。
1人で湖面の杭になっていると、ふと、ドビュッシーの「月の光」の旋律が頭をよぎる。
彼とは、今からも何回も一緒に釣りに行くだろう。
腐れ縁が豊かに膨らんでいくのも、悪くない。