極度の昂揚と虚脱。
湧き上がる歓喜と疲労。
満ちてゆくものと干いてゆくもの。
真逆な感情がまるで真夜中の点滅信号のように、チカチカとせわしなくかけめぐる。
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり。」
太宰治の言葉が覆いかぶさってくる。目の前の出会いに感激しつつも、現実として上手く受け止めることができない自分がそこにいた。
誰のどんな気まぐれか分からないが、確かに選ばれてしまった。
実力だ、などとは思わない。人事を尽くしても、天命がないとここでこの魚に出会うことは出来ない。
鮮やかな朱色をまとったエラを苦しそうに上下させる彼女を気に掛けつつ、自分自身も息を荒げなから写真を撮ってはいたが、ずっと放心状態だった。
晩秋からこの日まで、仲間数人を含めて我々の中では未だレインボーはランディングされていなかった。ヒットは何回かあったらしいが、浅瀬に横たえた姿を拝むことはなかった。
自分にいたってはそれらしいバイト1回のみ。ここまでとても厳しいシーズンだった。
ただ、我々以外のアングラーはぽつりぽつりと結果を出していた。そのことがわずかな励みになっていた。
いつもより重い湖水の抵抗以外、特段変わった日ではなかった。
釣れないことに段々不感症になりつつあったが、そんな時間も頭の中ではバイトの瞬間から始まる至福の数分間を何回も何回も反芻(はんすう)していた。ところが、えてして、こんな期待に胸をふくらませているときには釣れないものだ。何も起こらない時間はとても穏やかに過ぎていく。
風もなく、静かな湖面に1箇所だけ、小魚が水面をついばむ場所がある。
しばらくぼんやりと眺めていると1度だけ、「ボシュ。」というとても遠慮がちでひそやかなライズがあった。何となくその主が強い警戒心を持ったランカーに思えた。
陸に上がり、遠巻きにそのポイントを目指す。まるで渓流でストーキングをするように、背をかがめ、ゆっくり、ゆっくり。存在を悟られないように。
数投するが、何も起こらない。右手の水面では相変わらずベイトフィッシュの痕跡が水面に模様を付けている。もしかしたら、奴はアングラーの存在に気づいて、少し深場に沈んだのかもしれない。
そう考えて、左手のドロップオフになっている場所にキャストした。
その時、胸のポケットに入れていた電話の振動が伝わってくる。出てみると仕事のトラブルだった。急いで何箇所かに連絡を取ってそれを処理した。その間、頭の中からレインボーはすっかり消えていた。
やはり、湖でランカーサイズを仕留める最大のキーは殺気を消すことなんだと思う。はたから見ていると単調な動作の繰り返しなのだろうが、糸電話と化したラインを介して、地上と水中との間には、実に様々な情報が往復しているのだ。
心を制御する。マインドゲーム。このことこそが湖のトラウトゲームの真骨頂だと思う。
ついさっきの案件をぼんやりと思い出しながら、同じポイントにキャストし、全く無気力にリーリングをしていた時だった。多分仕事を片付けた直後の一投だったと思う。
突如。
「ドスッ!」
「ドッ!ドッ!ドッ!ドッ!」
パラゴンを通じて、嫌がって頭を振っているのが分かる。間違いない。レインボーだ。しかもデカい。手前の方にあるドロップオフの少し沖だ。それほど遠くない。
数え切れない位繰り返してきた頭の中でのシミュレーションのおかげなのか、目の前で起きている現実を冷静に分析する自分と、仕事の余韻をまだ引きずっている自分とがいた。不思議な感覚だった。
頭を振った後、急激なダッシュをしてみせる。瞬時にドラグの感触を確かめる。「ジィィィ!!」とラインが出てゆくが問題はない。きつくもなく、緩くもない。パラゴンはバットから曲がっているが、まだ少し余力がある。PEとリーダーの結束は、これくらいの感覚だったらまだまだ大丈夫だ。あとはフッキングの場所だけだ。
数秒の間に全てをチェックする。
走っている間は巻かずに耐え、巻けるときは決してテンションを緩めないように、一定に巻く。
ジャンプの気配を感じる。ロッドティップを下げ、ベンディングカーブをゆるやかな状態に保つ。
目の前にその姿が見えたとき、その大きさにひるんだ。一瞬、冷静さを失った。間違いなくここでの自己レコードだ。きっと60は超えている。
そこから5~6回、沖に向かって数メートル、ドラグを鳴らしてダッシュする。
フッキングの場所を見る。よし、獲れる。このまま、このまま。
ついに、泳ぎが鈍くなり、身体を横にし始めた。ランディングネットを持つとき、少し手が震えていた。トップガイドにリーダーが触れるくらいラインを巻き取り、すくうようにネットイン。
ずっとこの日この時を目標にしてきた。タックル。ギアやウェア。そしてライン。スプーン。フック。全てをこだわってきたつもりだ。
全てはこの日この時のために。
ここまで何回くらいだろうか。かなり釣れない日々が続いていた。またこの日は少しの時間しか釣りが出来ないこともあって、一番信頼できるスプーンのみでやると決めていた。
サトウオリジナル アンサー11g。カラーはGKY。もう何も言うことはない。
一生忘れられないスプーンだ。
フックはオーナーのサルモ。自分でタイイングしてループフックにしている。ルアー専用の針と比べるとかなり柔らかい金属だと思う。軽い根掛かりでもフッキングポイントがつぶれたりして、頻繁に交換をしないといけないが、この柔らかさが気に入って使っている。
想像だが、バイトした後に硬い針だと口の中で滑ってしまうところを、この針だと、粘りながら、曲がりながら刺さることが出来る場所をまさぐってきてくれる。そう信じている。
ランディングネットは今年から湖用はウォーターランドのナナマルスッポリネットを使っている。ラバーネットだ。去年まではクレモナの中型ネットを使っていたのだが、50㎝を超えると、尾ビレや胸ビレに食い込んで、ヒレが裂けてしまう。これが嫌だった。金属の武骨な感じも湖のランカー狙いには雰囲気だと思っている。
この日はウェーダーを履かずに、ベストも着ていなかった。
ランディング直後、メジャーがないことに気付き、遠くにいたバサー達に大声で呼びかけ、走って持ってきてもらった。
計測すると、63㎝だった。大台を超えた。今年の目標を達成した。
また、自分は、人知れずこの湖の環境保全にずっと前から取り組んでこられた方々を知っている。
自然繁殖がほぼ望めないここにおいて、彼らの存在があったからこその出会いでもあった。心から感謝申し上げたい。
リリースしようとして彼女の腹を支える。手のひらいっぱいにそのぽってりとした重みが伝わってくる。
ランディングしたときからキープする気はなかった。確かに記録級の魚だけど、欲しいのは、龍神の化身のようなオスだ。80㎝オーバーだ。神殺しをやるのだ。一生を掛けて。
目標は遂げたが、まだ夢が残っている。
しかし同時に、なぜだか、もう夢しか残っていない、というどうしようもない寂寥感がこみあげてくる。
「人は何かを得れば、何かを失う、そして何ものをも失わずに次のものを手に入れることはできない。」
「釣師は心に傷があるから釣りに行く、しかし彼はそれを知らないでいる。」
あの大兄たちが遺した言葉が通り抜ける。
やがて彼女は美しい緑色の背中をゆっくり揺らしながら、深く、蒼い水底へと帰っていった。
気が付くと、煙草を持つ指がカタカタと震えていた。
帰りながら、尖りきった神経をなだめるようにマイルス・デイビスの”Blue In Green”を何度も何度もリピートした。
マイルスのハーマンミュートは誇り高い孤独をつぶやき。
ビル・エバンスの耽美なコードは包まれる喜びを優しく唄う。
世界は陰と陽から出来ている。
そして大兄たちの言葉は、相変わらず雲のように何度も沸き上がり、消えていった。
~ Tackle Data ~
Rod : Anglo and Company Paragon PR743
Reel : DAIWA BRADIA2500
Line : VARIVAS スーパートラウト アドバンス マックスパワーPE 0.6号
Leader : VARIVAS ストリーム ショックリーダー10lb
Spoon : サトウオリジナル11g(カラー:GKY)
Hook : 自作(オーナー社 サルモ15号をタイイングして製作)
Camera : OLYMPUS OM-D EM-5